アナログ携帯電話(1G)におけるMotorolaの日本参入工作
1985年~1990年ごろの昔話。第1世代移動通信でMotorola(モトローラ)は外交圧力を駆使して日本参入を果たす。
通信自由化でDDI設立
1985年4月、通信自由化により第二電電(DDI、KDDIの前身)が設立。母体は京セラ、創業者は京セラ社長の稲盛和夫。同年、電電公社が民営化されNTTになった。(=日本電信電話公社から日本電信電話株式会社になった)
Motorolaの参入戦略
1979年、電電公社(現在のNTT)が自動車電話サービスを都内で開始。
電電公社が独占している日本市場に商機を見出したMotorolaは巧妙な参入戦略をとった。
DDIへの技術供与
ひとつめの参入戦略はDDIへの技術供与。
圧倒的な技術力と電電ファミリーを有するNTTに対抗するため、DDIにとってもMotorolaは格好のパートナーだった。
ロビー活動
2つめの戦略は外交圧力の駆使。Motorolaは米国通商代表部(USTR, U.S. Trade Representative)にロビー活動を行い、日本の通信市場の開放を求めた。
USTRの内政干渉を受け、1985年のMOSS協議で日本政府は北米方式の携帯通信システムを導入することに合意させられる。
MOSS協議=Market-Oriented Sector Selective talks。市場分野別個別協議。日米貿易摩擦を解消するため、エレクトロニクス等4分野で日本市場の開放を要求された。
北米方式=AT&TとMotorolaが開発したAMPS方式、もしくはAMPSをMotorolaが英国向けにアレンジしたTACS方式。
翻弄されるIDO
1988年、NTTが大容量方式(HICAP)のサービス開始。
同年、日本移動通信(IDO)もNTT大容量方式で携帯電話事業に参入。
1989年、DDIセルラーがJ-TACS方式のサービス開始。
当時の郵政省の方針として、800MHz帯の通信キャリアは1地域2社とされていた。したがって全国でサービスできるNTTに対して、IDOは東京と名古屋、DDIはそれ以外という住み分けになった。
しかしIDOがNTT大容量方式を採用したため、DDIの携帯電話は東京と名古屋では使えないという事態になってしまった。
Motorola軍団(DDIと米国)は激おこプンプン丸。そしてUSTRの圧力に屈した日本政府はIDOに対してJ-TACS方式の採用を強制させる。
政治的圧力に翻弄されたIDOは1992年からJ-TACS方式によるDDIとの日本全国ローミングサービスを開始する。
1地域2社の縛りを念頭におけば、後発のIDOは最初からDDIに合わせてJ-TACSを選んでも良さそうに思う。しかし自動車電話を意識したので全国で使えるNTT方式を採用するほうが現実的だった。
トヨタ企業サイト|トヨタ自動車75年史|第3部 第2章 第4節|第3項 KDDIへの再編
当初、移動体通信では自動車への搭載を念頭に置いたため、NTTとの端末の共通化を強く意識し、同社と同じ無線方式を選択した。ところが、当時の日米経済摩擦により米国のモトローラ社方式の導入が政府間で合意され ...
Motorolaが残したモノ
Motorola参入が日本の通信業界に与えた影響は2つ。
ひとつはデメリット。日本の通信業界は米国の圧力に弱いと露呈したこと。Motorolaと同じやり方で3GではQualcomm方式(cdma2000)の横槍が入る。
もうひとつはメリット。ぬるま湯だった電電ファミリーの競争意識を刺激し、小型・高性能な端末を開発する原動力になった。
1989年に発売されたMotorolaのHP–501(通称:マイクロタック)は衝撃的な小ささだった。黒船「マイクロTAC」に対抗すべくNTTは「ムーバ」を開発。携帯電話の小型化競争が始まるきっかけとなった。