日本の2G(第二世代移動通信)の歴史
クアルコムと移動体通信の歴史を振り返るシリーズ。
アナログ携帯電話(1G)におけるMotorolaの日本参入工作 - おばかさんよね
GSMがグローバルスタンダードになった理由 - おばかさんよね
目次
2Gとは?
1980年台に規格策定され、1990年台から実用化された第2世代移動体通信システム。
主な方式は以下の4つ。
- 欧州:GSM(FDD-TDMA方式)。2Gでは世界で最も普及。
- 米国:D-AMPS(=IS–54)、cdmaOne(=IS–95)。
- 日本:PDF。結局、日本だけのガラパゴス規格に終わった。
欧米の動き
日本の2G(デジタル方式の携帯電話)規格策定の歴史を振り返る。
GSMと比較してPDCは失策と評価されることが多いが、欧米が先行していた世界的背景があり、日本政府と企業の涙ぐましい努力があった。
欧州:GSM
1G(アナログ携帯電話)では米国や日本に技術力で勝てないため、欧州はデジタル方式(2G)で先手を打つ戦略を取った。
- 1982年、欧州の官公庁(CEPT)が主導して2Gの規格策定スタート
- 1988年、GSMの標準化団体 ETSIが発足
- 1992年、ドイツで最初のGSMサービスがスタート
GSMがグローバルスタンダードになった理由 - おばかさんよね
GSM規格化の歴史
米国:D-AMPS
米国は1G世代のAMPS方式の世界的成功が2Gでは足をひっぱることになる。
欧州に対抗して米国もAMPSをデジタル化したD-AMPS方式をIS–54として規格化する。しかしIS–54は失敗に終わり、結局、通信キャリアはGSMに移行することになる。
D-AMPSが失敗した理由は諸説あり。
- マルチパス等化を行うため高価なDSPが必要だった。
- アナログ方式とデジタル方式の両方の機能を持つデュアルモード端末が要求されたため、端末価格が高く売れなかった。
- アメリカは地域別に周波数オークションの仕組みがあり、通信キャリアが全国統一した周波数帯でサービスができなかった
以下、時系列トピック。
- 1989年1月、CTIA(Cellular Telecommunications and Internet Association)がD-AMPSを2G規格として承認
- 1990年3月、D-AMPS方式がIS–54として規格化
- 1993年からサービス開始
米国:cdmaone
後発となるが、もとは軍需技術だったCDMA方式の民間転用に成功し、米国の通信技術は再度、世界的成功を収めることになる。
- 1985年、Qualcomm設立
- 1989年ごろよりQualcommが2GにCDMA方式を提案。 - TDMA方式より周波数利用効率が優れているとアピール
- TDMAより遥かに複雑な処理が求められるため、当時の半導体技術ではコスト的な実現性がないと言われていたが、DSP演算性能の急速な進化が追い風となった。
- 1993年、TIAがIS–95としてCDMA方式を規格化
- 1996年、米国で商用サービス開始
- 1997年、IS–95をcdmaOneブランドに名称変更
国産技術:PDC
欧米より数年遅れて日本でも2G規格の開発が始まり、米国のD-AMPSと似た国産規格 PDC(Personal Digital Cellular)が策定される。
PDCは国内で普及し、まずまずの成功を収める。PDCの成功理由も諸説あり。
- 郵政省が通信技術の国産開発にこだわり、GSM等、外資参入を防いだ
- NTTと電電ファミリーの技術力が高かった
- D-AMPSと違い、マルチパス等化を必須しなかった
以下、時系列トピック。
- 1991年、STD 27として規格化
- 1993年、NTTドコモがPDCサービスを開始
電電ファミリーがガラパゴス化
PDCの普及は電電ファミリーの国内重視志向、ガラパゴス化も招いた。
しかし当時、欧州企業もGSMの重要仕様をクローズ化して囲い込んでいたため、日本企業が対等に戦うことは不可能だった。
当時の郵政省がGSM参入を防ぎ、国産独自規格を奨励したことはあながち失策とはいえず、むしろグローバルスタンダードで市場支配を狙う海外勢から国内企業を保護する役割も大きかったと思う。
PDCが海外で普及しなかった理由として、NTT法の制約を挙げる説もあるが、私は因果関係がないと思う。
NTT法があったからPDCを海外で売り込めなかったのではなく、そもそもPDCは日本国内で使うことしか考えていなかったからだ。
それに対してGSMは当初から欧州各国の標準規格として策定されていたため、国際ローミングが可能、システムとして売り込みやすい、英語の規格書が整備されている等、圧倒的な技術メリットがあった。
GSMの成功要因は、ヨーロッパが旧宗主国のコネを利用して植民地だった国に売り込んだという政治的要因だけでなく、国際展開しやすい規格だったという技術的要因も大きかったはずだ。
cdmaoneの導入
2Gで郵政省は国産PDC方式で統一を指導した。1G時代に
NTT HICAPとMotorola TACS方式の異なる規格は不効率なインフラになると考えたのだろう。余談だがIDOはGSMを検討していた説もある。
しかし同じ土俵ではNTTが圧倒的に強く、DDIセルラーの契約者数は伸び悩む。
1998年、DDIは起死回生の手段として2.5Gのcdmaoneを先駆けて導入する。
しかしNTTからシェアを奪うことができず、PDCからcdmeoneへの移行は失敗だったと言われる。その理由は諸説あり。
技術面
- cdmaoneはPDCより音質が良いと宣伝されたが、通話先がPDCのことも多くメリットが薄かった。
- PDCより電池持ちが悪かった。
販売戦略
- 新規加入者の獲得を優先し、PDCの既存契約者が切り捨てられた
- PDCに投資を進めていたIDOはまたしても設備投資が必要になり、財務状況が悪化。親会社トヨタの増資で子会社化される。おそらく販売奨励金など施策面の制約となったはず。
法林岳之の非同期通信レポート
PDCに対抗して「デジタルからスーパーデジタルへ」と宣伝された
cdmaoneを導入した本当の理由
なぜDDIはPDCを捨ててcdmaoneを導入したのか?一般的にはPDC方式ではNTTに勝てないからだと言われている。しかしcdmaoneを導入したらNTTに勝てると本気で考えていたのか、疑問だ。
まず、PDC(TDMA)より複雑な演算処理をするCDMA方式はバッテリー持ちが悪いことは自明。そしてNTTに勝てない最大の理由である基地局網も解消しない。CDMAはパワーコントロール技術で貧弱な通信環境でも粘るメリットがあるとはいえ、根本的な解消にはならない。
そこで考えられる仮説はDDIの親会社、京セラのグローバル戦略としてcdmaoneを導入したという仮説だ。
1999年、京セラはcdmaone方式の携帯端末事業をクアルコムから買収している。京セラは国内向け端末でノウハウとコスト体力を鍛え、米国市場に進出する狙いがあったはずだ。Qualcommと京セラの工場買収交渉の裏側では、DDIにcdmaoneを導入させることが水面下で話し合われていたと思われる。
その後、カリスマと称される京セラ 稲盛和夫がトヨタを説得。2000年に京セラ系のDDI、トヨタ系のIDO、KDDの3社合併しKDDIが発足する。